ただそれがそこにあっただけなのだろうが、

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卒論に追われています。
しかも演劇なんかを扱ったばかりに
これは下手なこと書けないじゃん

今更半ベソで読みあさっています。
夕方から西堂行人著書を読み、
飽きたら池上彰さんの
『高校生からわかる「資本論」』
をほほうと読んでいました。
夕ごはんをしっかり食べ
さて続きをば読もうとしたのですが
ばあちゃんがあきらかに寝てるのにどーしてもNHKのつるべさんの家族の番組の見らなんのその音量のでかいの内容のさだまさしの「♪しあわせにい」の食べてるソフトクリームの、
……あー!!
うるさいよ!
と川上未映子(今話題のぉ)『わたくし率 イン 歯ー、または世界』を読もうとするがつるべと前川清が元気で
ダメだ、散歩じゃ!
ってなぐあいで寒空に飛び出したのです。
すっかり夜になったその真っ暗な田舎道を歩き出しました。
暗さの中を煙草の先端の赤みを頼りにのたのた草履をみぎ、ひだりと出し歩いて、私はあの場所を目指しました。
ばあちゃんん家、つまり母の実家の近所には蓮が一面に広がった大きな池があります。
それはよく観察すれば明らかに人間がこさえた貯水池ですがそんな人工的な匂いはしない。
だけど、藪の中にひっそりと何か生き物が口を開けて待っているような泥臭い胡散臭いものではなく、
ほどよい品位と神秘性をたたえたそれが
私は小さい頃からそれが好きでした。
こうやって文にしてみるとそこの存在ちゅーか“いかた”はやっぱり私を引き付けるのです。
見えない池の深さが怖かったり、夏にはもおーもおーと鳴くウシガエルの姿を数えたり、そしてなによりピンクの蓮の花を毎年うっとりと眺めていました。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』冒頭ではないですが、蓮の花はそこを極楽ではないにしろ田舎の泥臭い池をすっと神秘的に演出していたのです。
でも今は冬です。
それも夜のそこには蓮の花もカエルの騒音もない、ただ夜の底が暗く佇んでいるだけだったのでした。
私はそこをぼぉーと、ただぼぉーと、見ていました。何も見えない多分池あるだろうところをぼぉーと、見てました。
その時にカエルの夏や池の深さを考えたかもしれませんがとにかく、ぼぉーと、していました。
すると、なんたることか、だんだんと池の輪郭が浮かんできたのです。
まさに「まざまざと」と形容するのにそれはぴったりな現象でした。
しかし、考えてみたら当たり前です。
生き物ですから暗順応で目が慣れてくるわけですからそれが見えたとしても驚くことはないのです。
ただ本当に分かっていたのか?
こうやって眼下に見え始めた蓮のシルエットに私は暗順応で済ませるほどドライになれません。
ここで私は始めて知識と経験を実感できたのかもしれません。
いやいや、そんなことを言いたいわけじゃない、
ただあのまざまざと浮かんできた蓮を私は無視できることができなかっただけで、暗順応だと片付けたり、これこそ知識が経験に変わったとかそうやって頭から消してしまいたい、でないと卒論や、明日のバイトがおぼつかないだろ!
にしてもやっぱりこうやって文にしてしまう。
久しぶりにそんな暴力に出会えたような、
いやいや、やっぱり何をまとめればいいのか。
ただあの、蓮の、まるで向こうからやって来たように現れたあのシルエットがそこにあっただけだったんです。

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